キュビズムディックとそよ風パンケーキ

「キーンコーンカーンコーン」

 

講義の終わりを知らせるチャイムだ。どうやら眠りに落ちていたらしい。寝ぼけながらホワイトボードの方に目をやると、来週までに出さなければならないレポートに関して、教授がなにか説明している。だめだ何も頭に入ってこない。
「あとで誰かに聞けば良いよ。」
私の中のだらしない私が呟く。私は大人しくその声に従うことにする。

今から研究室に行かなければならない。先週から定期的に計測している、土粒子の沈降の途中経過をみるためだ。今日は私がその担当になってしまった。何かしらずっとすることがあるのなら良いのだが、基本的には数10分に1回、計測してデータを記録するだけで、これがまた非常に退屈な作業なのである。

 

適当にそれっぽい数字をデータシートに書き込んで、終わらせてしまうか。そんな考えが頭をよぎる。まただ、だらしない私。しかし、そんなことをしてしまってはあとで辻褄の合わない結果が出て、後々もっとめんどくさいことになるので、私はだらしない私を論理的に説得する。実験を失敗させるわけにはいかない。いや正直なところ、私自身こんな実験がどうなろうが知ったこっちゃないのだが、研究室のみんなに迷惑をかけるのはやはり気が引ける。

 

 

次の計測時間を待ちながらこうやってボーっとしていると、だんだん眠くなってくる。今寝てしまっては、計測しなければならない時間にデータを取れず、実験が台無しになってしまう。ここで寝るわけにはいかない。

 

そうだ、睡魔に負けないためにも、何かエロいことを考えよう。

 

「ちんこ、ちんこ、ちんこ。」呪文のように唱えてみた。

 

だめだ、まるで効果がない。一瞬だけ、大きく硬く、形の立派なアレが思い浮かんだが、すぐに脳は想像力を失って、アレの輪郭はぼやけ、しまいにはキュビズムを感じさせるような長方形の”何かしら”と化した。抽象的すぎて全然エロくない。なんだこれは。ただの棒状の何かじゃあないか。なるほど、裸がたくさん描いてある抽象画に興奮しないのはこういうことか。いや、どういうことだろうか。

 

エロいことは効果がなかったので、腹が立つことについて考えることにする。そうそう、ちょうど最近腹を立てていることがある。トイレで遭遇する、風量がおぞましく弱いハンドドライヤーだ。あんなお粗末な代物で濡れた手が乾くわけがない。何を考えているのかさっぱりわからない。まるでそよ風である。そもそもハンドドライヤー自体、効率的なのか、衛生的なのか甚だ疑わしい。手を洗っても菌は必ず残っているし、それを撒き散らしていることになるんじゃないか。あの風の噴出口は常に清潔に保たれているのか。ペーパータオルもエコじゃないためにNGならば、みんなハンカチを持ち歩くべきなのではないだろうか。しかしハンカチを持ち歩かず、気にしない人も世の中にはいるのだろう。そして、彼らは濡れた手でトイレのドアノブに触るのだ。アレほど不快なものはない。なぜだ。なぜ濡れた手で触るのだ。もう自動ドアにしてくれ、いやいっそのことドアなんてなくて良い。

 

だめだ、腹が立ってきて収まらない。この調子だと至る所に飛び火してしまいそうだ。おかげで眠くなくなった。なるほど、水分は吹き飛ばせないのに眠気は吹き飛ばせる力があるらしい。

役に立つこともあるじゃないかハンドドライヤー。

 

 

ああ、あと2時間は大学に拘束されるだろう。想像しただけで億劫だ。こういうときは、何か幸せなことを考えることにしよう。

 

なにか幸せなこと。幸せなこと。なにか。
夜ごはんについて考えよう。食べ物のことを考えているとき人は幸せであるに違いない。今夜は何にしよう。バイト先のおばちゃんにいただいたスダチがたくさんあるので、魚でも焼いて食べよう。スダチでドレッシングを作ってカルパッチョなんて作ろうか。ビールがあると最高だ。スダチサワーなんかもいいかもしれない。お腹すいてきた。早く終わらせて帰りたい。なんで私は今大学にいるのか。全く理解できない。幸せじゃなくなってきた。

 

幸せなこと。幸せなこと。幸せ。そもそも幸せってなんなのだ。幸せの定義を教えてほしい。幸せになるためのチェックリストがあれば、楽に幸せになれるというのに。『幸せのパンケーキ』というフワフワなパンケーキを食べられるお店に、ひどく長い行列ができていたのを目にしたことがあったが、あれは、「そう簡単に幸せになれると思うなよ、人間どもめ。」と暗に示していたのだろう。

きっとそうなのだろう。知らんけど。

 

ふう。また眠くなってきた。意識は朦朧とし、さっきまで何を考えていたかもはや思い出せない。頭の中には、よくわからない棒状の何かが、そよ風になびいているイメージしか残っていない。

 

少しだけ、だらしない私に身を委ねてみようか。だらしなくてもここまで生きてきたんだ。なんとかなるだろう。なに、爆睡するわけじゃない。

少し目を閉じるだけだ。

 

目を閉じるだけ。